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黄昏のなかを、男は走る。
昨日〈メアレス〉どもから受けた傷は、まだ癒えきっていない。なんとか人間らしい姿に擬態してはいるものの、顔に走る無数のヒビや、節くれだって歪んだ手足など、細部 までは調整しきれていない。そもそも、見抜かれた〝影〟の処理だってできていないのだ――常人の目はごまかせても、〈メアレス〉に発見されるのは時間の問題だろう。 -
男
(それでも、逃げればなんとかなる。逃げれば……逃げさえすれば……)
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転びそうになりながら、細い路地を駆けていく。驚き顔の人々をかき分けて、ただひたすらに、前へ、前へ――この都市の中央にそびえる、〝現実〟に通じる門へ向かって。
陽は墜ちかかっている。昼の終わりと夜の始まりが入り混じる境。現実と夢の狭間。人に捨てられた見果てぬ夢が、現実に至ることのできる、唯一の刻限。 -
男
(逃げる……逃げる……果てしない自由へ向かって……ただ限りなく……)
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男のなかにはそれしかなかった。誰かの見た夢。誰ぞ悲劇の囚われ人。今、自分がここにいるということは、その者は願いを叶えられず、諦めるしかなかったのだろう。
その者を助けたいわけではない。ただ自分を叶えたいだけだ。〝叶う〟ことこそ、〈夢〉の本懐。たとえ願い主が諦めようと、〈夢〉たる彼は諦めない。無理やりにでも現実に出て、自分を叶えて、それでようやく、生まれた意味を果たせるのだ。 -
男
(逃げる……逃げてやる……逃げなければならないんだ! そう、たとえ――)
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男は、足を止めた。
目の前――路地の先に、ふたりの人間が立っているのが見えた。
糸で繋がれた骨の骸を操る少女と、銃を携えた異装の女。
その姿を認めた瞬間、男は烈 しい咆哮とともに真の姿に変化し、躍りかかっていた。 -
〈ロストメア〉
(たとえ〈メアレス〉どもに見つかったとしても――逃げて――逃げきって――俺自身を叶えるんだ!)
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リフィル
墜とせッ、ルリアゲハッ!
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ルリアゲハ
合点承知の助ってね!
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リフィルの声にうなずきながら、ルリアゲハは携えた銃の引き金を絞った。
牙剥く銃火。容赦呵責のあろうはずもない鉛の弾丸が、夢の残骸に次々と喰らいつき、肉を引きちぎっていく。〈ロストメア〉は激痛に叫び、悶えた。
その叫びは、人の戦意を奪うとされる。夢を持ち、叶えたいと望む人間にとって、夢の悲鳴は痛ましすぎるのだ――どうしようもなく我がことのように思えてしまい、戦う気概を削ぎ落とされる。
〈メアレス〉は違う。夢がない。だから〈ロストメア〉に同情することなく、ただ厳然と戦える。 -
ルリアゲハ
(悪いけど、そういう人間もいるということよ)
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銃弾を浴びせ続けながら、ルリアゲハは胸中で相手に呼びかけた。
かつて、彼女にも夢があった。戦乱の地――一国の姫君――群雄割拠の時代のなかで、生まれた国と民を守るため、力のすべてを尽くして戦う誓いを立てていた。
だが、その夢を叶える力が彼女にはなかった。異国の脅威が迫った際、徹底抗戦を主張するルリアゲハに対し、妹姫が理と策による非戦の案を訴えた。すると、対立するふたつの意見に併せて家臣が割れ――妹派の策謀が、ルリアゲハを襲った。
決して妹姫の意志ではなく、彼女を擁立しようとする家臣たちの暴挙だった。身に沁みついた武芸の技で難局を切り抜けることはできたものの、守るべき自国の人間に襲われたという衝撃は、夢に燃えるルリアゲハの意志を根底から叩き折っていた。
ルリアゲハは、すべてを妹に託して国を去った。くだらない政争で国が割れ、他国のつけ入る隙を生むより、その方が良いと思ったのだ。
どちらか消えるとしたら自分の方だった。妹は、武芸しか能のない自分と違い、政治にも戦略にも長けている。家臣がふたつに割れたのは、きっと内紛を狙った敵国の手引きもあってのことだろう――そういった手合いに対抗する力は、ルリアゲハにはなかった。
夢を捨てたとは思っていない。諦めたとも。預けるべき人間に確かに預けたのだ。後悔はない。誰を恨むこともない。
ただ、何もなくなったのは確かだった。成すべきことも守るべきものも、これまでのすべてがこぼれ落ち、あまりにも生きる意味を見失い過ぎて、気がついたらここに来ていた。
黄昏都市〈ロクス・ソルス〉――夢と現実の、その狭間に。
そして〝夢を持たぬ〟ことを買われて〈メアレス〉となった。ただ〈ロストメア〉を倒すだけの狩人。目的を失った自分には似合いかもしれないと思った。実際そのとおりだった。
崇高な目的はない。達成すべき目標もない。ただ〈ロストメア〉を見つけ、戦い、砕き折るだけの日々。それが、とてつもなく心地よい。責任の重圧に血反吐を吐き続けてきたルリアゲハにとって、これはあまりにも甘美な闘争だった。
だから、〈ロストメア〉を倒して得られる報酬は金だけでいい。〈ロストメア〉が有する魔力――この時代の人間が失って久しい不思議な力――は、すべてリフィルにくれてやる。それが、ふたりの間で交わされた契約だった。 -
〈ロストメア〉
ぅあああぁああああああッ!
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〈ロストメア〉の咆哮が響き、その姿が消失する。すかさずリフィルが背中に回り、敵の奇襲を警戒した。こういう呼吸は、もう打ち合わせるまでもない。それもまた、ルリアゲハにとっては心地よかった。なんの気遣いもいらない相手と呼吸を合わせて戦う快感。この
楽 さは、癖になる 。 -
リフィル
背後じゃない!
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ルリアゲハ
上に跳んでる!
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上。路地を挟む家屋の屋根に出現している。もはや、奇襲する気もないのだろう。とにかく逃げて、逃げきって、現実に到達する。それしか考えていない。
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ルリアゲハ
悪いわね。そっちはそっちで、どん詰まりよ。