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毎年必ず、夏になると半月ほど山にこもって剣術の修業に打ち込むことにしている。
だからこの山はネイグにとって庭にも等しく、昼だろうと夜だろうと歩き回るのに支障はなかった。
修業中は剣以外の一切を持参せず、道具から食料からすべて現地で調達するようにしていた。
その経験のおかげで、山に逃げ込んだ二体目のキマイラを追跡するのは、さほど難しいことではなかった。
ネイグ
このあたりか。
松明も持たず、慣れ親しんだ森をゆく。
夜目が利くというのもあるが、これもまた修業の成果だ。心眼を鍛えるため、目隠しをしたまま山籠もりに入ったのは、一度や二度のこどではない。
通常、森に逃げ込んだ相手を追跡するには、その痕跡を探す。やわらかな地面に刻まれた足跡や、草を踏んだ跡、身を木々に引っかけた跡、残り香、食べかす、糞尿――この世に存在する以上、何も痕跡を残さないわけにはいかない。そうした痕跡をどれだけ見つけ出せるかが鍵となる。
しかしこの場合、そんな熟練の技術は必要なかった。
キマイラという、この近辺には存在しない魔物が入り込んだのだ。
虫も獣も息を潜め、その脅威から遠ざかろうとする。水に投げ込まれた石が波紋を広げるように、キマイラという異物が森に〝いつもと違う空気〟を作るのだ。それを探せばいいだけのことだった。
実際、ネイグは労せずしてキマイラに追いつくことができた。
山の中の、森の奥深く。木立に守られるようにして、しくしくとないている異形の獣に、ゆっくりと忍び寄っていく。
ネイグ
(もうすぐだ)
ここでネイグは失態を犯した。キマイラの感覚を甘く見ていたのだ。
尻尾となっている蛇の頭が、ぎくりと持ちあがった。
ネイグ
(しまった!)
においを気取られぬよう、風下から、足音を消してゆっくりと近づけば、熟練の狩人なら、警戒心の強い鹿にすら気づかれない。ネイグもその域に達していた。
獅子や山羊なら問題なかっただろう。だが、キマイラの尻尾が蛇のそれであるということを忘れていた。背後から近づくということは、蛇の頭の正面に位置するに等しい。そして蛇は、生き物の体温を感知する稀有な能力を持っているのだ。
キマイラ
こ、来ないで!
キマイラが振り向き、悲鳴を上げた。
ことここに至っては足音を殺しても仕方がない。ネイグは剣の鞘を払い、慎重に疾走のタイミングを見計らう。
レシー
あなた――ネイグさん!? あたしレシーよ!
こんなだけど、レシーなの! お願い、助けて! あたしも何が何だか――
間合いに入った。ここからなら一瞬で肉薄して一瞬で斬り倒せる。
確信を胸にネイグは地を蹴った。反応する暇も与えず、獅子の喉首へ無慈悲な一刀を閃かせる――
ルノス
やめろっ!
刃は、割って入った黒い影を斬り裂いた。
本来なら喉を裂いていたはずの斬り上げは、乱入者の腕を斬り、硬い骨に止められる。
ネイグ
ちっ。
ルノス
ひいっ。
ネイグが剣を引くのと、乱入者が悲鳴を上げてうずくまるのが同時だった。
キマイラだ。左前脚から血を流し、ひいひいと泣いている。ネイグは苛立ちを覚えた。
ネイグ
(ルノスか。どこに行ったのかと思ったら)
気を取り直し、もう一度接近する。
泣きわめくキマイラを飛び越えて、レシーに剣を突き立てようとする。
ルノス
よ、よせ!
瞬間、泣いていたルノスがハッとなって立ち上がった。
身体全体でレシーにぶつかり、吹き飛ばすようにして場所を入れ替わる。跳躍したネイグの剣は、その山羊の頭に突き刺さった。
獅子の頭が絶叫を上げ、めちゃくちゃに暴れ回るので、ネイグは仕方なく後退した。
ルノス
なんでだよ!
キマイラが吼えた。その声は激痛に震えている。
それでも、彼はネイグの前からどこうとはしなかった。
ルノス
違うって言ってるだろ! レシーだって! なのになんで斬ろうとするんだ!
ネイグ
黙れ、化け物!
ちょうどいい、と考えを切り替えた。ここでまとめて始末してしまおう。そうだ、それがいちばん楽でいい――心の奥でほくそ笑みながら、今度は目の前のキマイラを殺すつもりで斬りつける。
が。
ラディウス
まあ、待てよ。
またしても横合いから邪魔が入った。
次に割り込んできたのは鋼の旋風そのものだった。刃と刃が激突し、甲高い音とともに火花を散らす。それが、相手の姿を浮かび上がらせた。見覚えのある出で立ち――確か、キマイラ出現の噂を聞きつけてやってきた、ラディウスとかいう旅の傭兵。
ネイグ
邪魔をするなっ!
ネイグは怒声を上げて斬りかかった。
傭兵だろうがなんだろうが、〈剣豪族〉族長家の長男たるネイグに剣で勝てるはずがない。ましてや、こんな夜の山の中で。
まずは牽制を放った。わざと闇のなかでも見えやすいよう、袈裟切りに剣を閃かせる。
当然、相手はこれを剣で受けるだろう。そうしたら即座に体勢を変え、神速の一突きを放つのだ。剣を縦にして突けば、闇の中では見えはすまい。これで確実に勝てる。
そう確信し、剣を振るった瞬間、強烈な衝撃がネイグの鼻っ柱をへし折った。
比喩ではなく、文字通りに。
ネイグ
――へがっ。
吹き飛ばされる。まるで湖に突き落とされたように、身体がふわりと泳いだ。
次の瞬間、背中をしたたかに地面に叩きつけられ、ネイグは蛙のような声を上げた。遅れて顔面に激痛がにじみ、馬鹿な、という思いが電撃のように全身を撃つ。
ラディウス
〈剣豪族〉は、〝剣を磨き、心を磨く〟のが使命だってな。
あきれたようなラディウスの声が、耳に遠い。
ラディウス
だとすりゃ、てめえは落第だ。
その言葉だけは許せなかった。
ぼたぼたと鼻血を吹き出しながら、それでもネイグはどうにか起き上がる。
ネイグ
貴様……。
唸り、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
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喰牙RIZE サイドストーリー
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