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アストラ島より、遠く遠く離れた海域にその国はある。 
 幾千もの島を統治下におく、空前の規模の国家。
 <帝国>である。帝国はただ一人の皇帝のもと、長きにわたり世界に君臨しつづけていた。 たちこめる霧。昼夜問わず輝くルーンの光。喧騒と静寂、古き時代と新しき時代がまざりあう場所。 
 ここは帝都。帝国の心臓部である。帝都でもとりわけ古い街並みの立ち並ぶ<セイウチ通り>。そこに一件の会員制クラブハウスがある。 
 その一室で、アイシャ・アージェントはクラブの執事がいれた紅茶の匂いを嗅いでいた。「ジュデイトのナンバー10」 アイシャは紅茶の銘柄を当ててみせた。執事は驚きを眉の動きで表し、一礼する。余計な口を聞かないのがここ『ヤドカリクラブ』の習わしであった。 アイシャは何かを口にすることを好まない。食事が苦手なのである。 
 とはいえ嗜好品を嗅ぎ分けるのは<仕事>に役立つ。有用ならば好みにはこだわらないのがアイシャの流儀だった。「やあアイシャ。ご機嫌はいかがかな?」 室内に現れた男は、優雅な微笑みを浮かべた。 
 貴婦人方の集まる晩さん会ではさぞや有効な武器となろうが、男が相対しているのは高貴な生まれの女性ではない。諜報活動のスペシャリストであった。「話によっては、機嫌が悪くなるかもしれないね。……気をつけたまえ、キリエ」 「ふむ、気に入ると思うよ?」 「君は悪人には向かないね、キリエ。で? 元老院はどんな無理難題を?」 元老院とは、帝国の議会の一つである。 
 平民でも議員になれる帝国議会とは違い、元老院の議員になれるのは帝国の大貴族だけだ。
 帝国という国において、君主たる皇帝はまったく権力をもっていない。
 実権を有するのは強大な権限を持つ貴族たちである。「先日、帝国陸軍の基地に何者かが侵入し、機密を盗んで逃亡した。所在は未だつかめていない」 「やれやれ、不祥事だね」 「というわけで、機密を取り返してほしい」 「つまらない仕事だな。だいたい軍の失態なら、軍に任せればいいだろう」 「……機密はこちらで確保する。軍には……渡さない」 キリエは、端正な顔だちに曖昧な表情を浮かべ、平然としていた。 
 アイシャが狩猟戦旗に席をおく理由の一つは、この男への興味からである。「ほう? 少しだけ面白くなってきたな」 「もう一つ、面白いことがある」 「何かな?」 「奪われた機密の中身だよ。そいつはこの国の裏の――そのまた裏に関係するものさ」 「元老院も知らないような……か?」 「いいねぇ。その目の輝きだよ……初めてあったときを思い出す」 「――いいだろう。分析官を手配してくれないか」 「もうしている」 
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