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池から顔を出した妻が、夜を凍らせるような絶叫を上げた。
ずぶ濡れの髪が蛇のごとくうねり、ファルクとイルーシャへ殺到する。
ふたりとも機敏に身をかわしながら、武器を振るって髪を迎撃した。鎌に切り裂かれ、銃撃に撃ち抜かれた髪が、びしゃりと血しぶきを撒き散らし、落ちた地面でのたうつ。
絶叫は続く。怒りなのか。悲しみなのか。何もわからない――伝わらない。何色でもない、しかし明らかな敵意と殺意にまみれた叫びが、魔性の髪を狂おしく躍らせた。 -
ジース
(これが、俺のしたことの結果だっていうのか?)
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妻が死んだ。それは確かだ。悲しくて泣いた。それも確かだ。
だが――だからと言って、妻がこんな姿になることを誰が望む?
そうとわかっていたら――決して―― -
ジース
(わかっていなかったのか……? 俺は――)
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大きく薙ぎ払うように振るわれた髪が、イルーシャを吹き飛ばした。「くっ」受け身を取り、地面を転がって立ち上がる女へ、さらに幾筋もの髪が肉薄する。イルーシャはすばやく銃を連射してこれを牽制、体勢を整えることに専念した。
髪を切り払いながら頭に近づこうとするファルクへ、背後から分身体が襲いかかった。 -
ファルク
邪ー魔!
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後ろ回し蹴りで吹き飛ばし、その回転を利用した鎌の一撃で、別方向から来る一体を刺し貫く。その足首に、長い髪が絡みついた。「しまった!」そのまま、ぐいと宙に放り上げられた直後、「ファルク!」イルーシャが大筒から魔力の矢を放ち、髪を引きちぎって弟を解放する。
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ジース
(死んでいても――死んだことを忘れさせれば、いっしょにいられると……俺は、そう思ったのか? こんなことになるとは思わずに――俺は――俺は……)
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着地したファルクが、鞭のごとくしなる髪を避けるため、泥だらけの地面を横転する。弟に注意が向いている隙に、イルーシャが妻の頭部へ乱射を見舞って、頬骨を粉砕した。妻はぐるりとそちらを振り向き、虚無だけをたたえたみっつの穴を大きく開けて咆哮する。真っ黒な風が吹き荒れて、イルーシャの身体を大きく跳ね飛ばした。
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ジース
(娘が死んで。妻が悲しみ、食べ物も喉を通らなくなって――病にかかり、起き上がることもできず――死んだような――暗い目をして――)
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泥が跳ねる。ファルクの疾走。大地を蹴立てて跳躍し、妻の頭上に着地した。縦横無尽に鎌を振るって、髪ごと頭蓋を削り砕いていく。妻が吼え、髪が一斉に反転、四方から少年に襲いかかった。ファルクは頭蓋を蹴って後退するが、よけきれず、空中で髪の殴打を喰らい、地面に叩きつけられる。
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ジース
(救えればと思った――少しでも慰めになればと)
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ジース
(だがだめだった――
娘 の思い出は妻 にとって重すぎた――妻を救うには、忘れさせるしかなかった) -
ジース
(だから俺は、それができる力を求めて――噂の魔道士――呪具を恵んでくれた――だけど戻ってきたとき、すでに妻は――だから俺は――せめて――せめて――)
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ジース
お……おおぉおぉおおおぉおおおっ!
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跳ね起きた。走り出す。ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながら、前へ――妻のもとへ。
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イルーシャ
ジースさん!
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ジース
俺のせいなら――俺がっ!!
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一瞬、注意を逸らす。それでよかった。そのために死ねれば。ふたりの戦いが楽になるなら――怪物と化した妻を止める一助となるなら。己の命を一瞬のために使うのに、なんのためらいもなかった。
妻の顔がこちらを向いた。ぽっかりと開いた目と口には、どこまでも深い暗黒だけがある。そこへ追い込んでしまったのは俺だ――ジースは意味をなさない絶叫に追いつくように走った。村の者たちへのすまなさ、もうどうにでもなれというやけくその思い、妻を解放してやりたいという願い、妻と娘の元へ行きたいというずっと以前から封じ込めていた切なさが混然一体となって、身体を衝き動かしていた。 -
ジース
喰うなら、俺を喰えっ! ライカぁっ!
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妻の名を叫び、身を投げ出した。すぐさま無数の髪が殺到し、両手両足に巻きつく。
これでいい。こうしなければいけないのだ。四つに裂かれる恐怖に涙がにじんだが、ジースは歯を食いしばって己の運命を受け入れた――
瞬間、光が、ぱっと目の前で弾けた。
あたたかな光だった。太陽が置き忘れたような。夜を照らすために生まれたような。誰も傷つけず、誰もの胸にぬくもりを灯す、純真無垢なる光だった。
妻が震えた。ジースの四肢に巻きついた髪が戸惑うように解け、わなわなとうごめいた。
茫然と目を瞬かせるジースを、ファルクが右側から力強く引き戻した。 -
ファルク
なんで俺らが、あんたの事情を知ってると思ってんです。
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ジースを睨み、淡く小さな光を指し示す。
妻の顔の前で、光は穏やかに咲いていた。妻の首が、わずかにかたむいた。不思議そうに、小首をかしげるようだった。 -
イルーシャ
あの子が、教えてくれたのですわ。
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左に立って、イルーシャが言った。憂えげな目元に、強い決意の光を灯して。
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ジース
〝あの子〟――
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ジースは震えた。あたたかな光。優しいぬくもり。太陽のような明るさ――自分は、あの光を知っている。何よりかけがえのない、宝そのものだった輝きを。
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ジース
おまえなのか――エフィア……。
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光は答えなかった。ろうそくの灯火がかき消えるように、ふっと闇に溶けていく。
その間に、イルーシャとファルクが前に出て、高らかな叫びを上げた。 -
イルーシャ&ファルク
ロード――〈死界の焔〉!
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ごうっ、と激しい魔力が渦巻いた。〝ロード〟。優れた力を持つ者が、己のトーテムに呼びかけ、その力を引き出す技法。力に満ちたふたりの背中を見て、ジースは気づかされた。自分のトーテムが、使命がなんだったのか、もうそれさえ覚えていないことに。
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ジース
(だが、少なくとも――こんな悲劇を起こすためのものではなかったはずだ)
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妻が吼える。振り乱した髪を、無数の槍と化さしめて、イルーシャたちに叩きつける。
姉弟は迫りくる髪槍を確 と見据え、湧きあがる力を解き放った。 -
イルーシャ&ファルク
〝邪魂と冷血のインフェルノ〟!
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ふたりが伸ばした手の先から、ぞっ、と荒ぶる炎がほとばしる。
怒りも涙も喜びも、呵々 と笑って呑み込むような、貪欲きわまる暴炎だった。髪の槍が瞬時に呑まれ、焼き尽くされ、黒い灰となって散っていく。
炎に巻かれ、妻が悶えた。絶叫と共に暴れ狂い、頭を池に沈めるが、炎は消えるどころかますます勢いを強め、猛り狂った。炎と火の粉が夜陰に躍るさまは、宴を楽しむようでもあり、獲物を嘲笑うようでもあった。その踊りのなかで、妻の頭部の輪郭が、ぼろぼろと崩れていくのが見えた。
怪物と化した妻の最後を、イルーシャとファルクは神妙に見つめていた。 -
イルーシャ&ファルク
安らかな死のあらんことを。
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静かな弔いの言葉が、届いたのかどうか。
燃え続ける炎の中で、妻はとうとう、動きを止めた。