コロカ事業

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岡山県備前市「直齋陶房」を訪ねる


 

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衰退と復興

しかし、その堅さゆえに、儚さがわびさびに通ずる茶道が発達した江戸期の風潮とは合わず、安く生産できる磁器の台頭も相まって衰退してしまうこととなります。

大正・明治を通しても変わらず衰退したままであった備前焼は、昭和に入り「備前焼・中興の祖」と言われる金重陶陽(かねしげとうよう)が、古備前への回帰を試みたことにより、見事に備前焼を復興させました。

その後、金重陶陽は備前焼初の重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、多くの弟子を育て備前焼の振興に多大な影響を与えました。その弟子の一人に、和さんの祖父、藤原啓がいたのです。

 

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文学青年・藤原啓

藤原啓は備前焼・陶工として史上二人目の人間国宝です。

その経歴が非常に変わっており84年の人生のうち45年程、つまり人生の半分しか陶工としての経歴がありません。

現在の備前市の農家に生まれた啓は、同郷の小説家・正宗白鳥にあこがれ、文学者を目指し東京の出版社・博文館に就職。在職中は様々な人々と積極的に交流し、井伏鱒二,横溝正史,平塚雷鳥との交友もあったとのこと。

 

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人間国宝・藤原啓

しかし、文学の道では食べていくことが出来ず、失意の中、38歳で郷里へ戻った啓は、正宗白鳥の弟で国文学者・正宗敦夫の薦めで備前焼を初め、金重陶陽や北大路魯山人の指導の下、古備前の復興を手伝い、次第に自分の作風を確立していきました。

師である金重陶陽の古備前への回帰とは異なる、おおらかで素朴な作品は後の備前焼・陶工に多くの影響を与えたようです。

「土で詩を書く。ペンを土にかえただけだ。」啓の言葉にあるように、型にとらわれない豪快な作風と人柄が反映されたその備前焼は、見る人を魅了しつづけるのです。

 

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