コロカ事業

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廣澤徳三郎工房・伊賀組紐


 

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伊賀で広まった訳

日本で組紐の歴史は古く、奈良時代には大陸からその技術が伝えられました。当初は経典や袈裟などに用いられていたのが、平安時代には王朝貴族の装束に、その後鎌倉以降は、武具や仏具、茶道具の飾り紐にと、活用の幅を広げていきます。

「伊賀のことでいうと、江戸時代には、刀や鎧の紐など主に武具や装身具をつくっていました。参勤交代で江戸へ行った下級武士が、組紐の技術を伊賀に持ち帰って広まったと言われています。もともとこの辺りは農業が中心で、大豆や米で醤油をつくったり、自給自足的な生活をしていたんです。始めはそうした農家が兼業的に始めたのかもしれませんね。」

この地域では養蚕も盛んだったため、材料となる糸は豊富に手に入りました。このことが、組紐の発展を後押ししたのかもしれません。

 

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再び一大産業へ

江戸時代までは、武具の需要が高かった組紐ですが、明治9年の廃刀令により、武家社会は崩壊。武具、装具を中心としていた伊賀の組紐産業は、またたくまに衰退します。

ところがわずか二十数年後の明治35年、江戸の組紐屋で修業をしていた初代、廣澤徳三郎氏が再びその技術を伊賀に持ち帰ります。徳三郎氏は糸組工場を設立し、帯締めや羽織紐をつくり、その技術を伊賀で開花させていきました。再び、伊賀の組紐産業の幕開けです。

戦後の最盛期には、この伊賀地域に100軒近い工房ができるほど。自転車屋も傘屋も組紐をつくっていたというくらいの一大産業として栄えました。今もこの地でつくられる組紐は全国に流通しています。

つまりは、現在の三代目徳三郎さんの先々代にあたる初代が、この伊賀に組紐産業を起こした方。廣澤徳三郎工房には、原点を守り継ごうとする使命があるのかもしれません。

 

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組紐をつくる

店内の中央には、組紐を組むための高台と呼ばれる器台が置かれています。制作所はお店から遠くない別の場所にあるそうですが、実演用に設置されたこの高台で、実際に組紐づくりを見せていただきました。

高台の左右には、糸をまきつけた沢山の糸玉がぶら下がっています。この左右それぞれ50から70もの糸玉を巧みにあやつって、左右上下に移動させ、組み進みます。一人前になるとオリジナルの図案を考案できるようになるのだそう。異なる色の糸を使ってこの模様を組んでゆくのです。

この表と裏の微妙なバランスが難しいところです。また、糸には下ごしらえが必要で、この作業に手を抜くと組みにくくなるなど、ひとつひとつの作業がとても重要なのだとか。

廣澤さんのところでは、糸は神奈川県から仕入れています。仕入れた糸に下ごしらえをして染め屋に出し、染まってきた糸を束ねて、お店にあるような組み台で組んでいきます。

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