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東京都江東区「門脇硝子加工所」を訪ねる

 

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不思議な魅力の北砂へ

都営新宿線西大島駅のA4出口から出て、明治通り沿いに歩くこと数分、小名木(おなぎ)川にかかる進開橋を渡り左折して、さらに少し歩くと出てくるT字路を右に曲がると、今回の目的地「門脇硝子(がらす)加工所」に到着です。

門脇硝子加工所のある北砂という町は、人工河川である小名木川周辺に海運を生かした工業地帯が発達し、現在もその名残からか、昔ながらの大小様々な工場と、新興住宅地としての高層マンションが混在しております。さらに少し足を伸ばすと下町情緒あふれる砂町銀座商店街もあるなど、不思議で魅力的な雰囲気を感じることができます。

今回は、そんな北砂で江戸切子を親子二代で作る、門脇健二さん・裕二さん親子を訪ねました。

 

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江戸切子と薩摩切子

ガラス細工自体は非常に古くから日本にも輸入されていましたが、日本独自のガラス細工・カットグラス技術が確立されるのは、非常に遅く江戸時代末期でした。

江戸では天保5年(1834年)に加賀屋久兵衛が当時ビードロと呼ばれていたガラスに、金剛砂(こんごうしゃ)と呼ばれる、研磨剤で透明なガラスの表面に加工を施したのが最初と言われています。

一方の薩摩切子は薩摩藩主島津家の主導の元、着色硝子を付け、その上からカットを行うという手法で江戸末期から明治初期に生産されていました。

しかし、薩摩切子の技術は明治維新から西南戦争への一連の動乱で明治初期に一端途絶えてしまいます。

その際に、東京へ移り住んだ薩摩切子の技術者が江戸切子にも着色硝子を使う技法を伝え、現在の色鮮やかな江戸切子へと進化していきました。

 

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門脇硝子の始まり

健二さんが江戸切子に携わるようになったのは、健二さんの叔父・叔母が北砂近くの大島で江戸切子作りをしており、そこへ弟子入りしたのがスタートです。

健二さんの叔父・叔母はその後の薩摩切子復元にも尽力されていたそうです。

江戸切子の世界は、分業制が進んでおり、ほとんどの会社がメーカーとして加工を中心に行っています。

一方で、健二さんはデパートの催事出店など、いつか自分自身で販売をしたいと考えていました。しかし、手作りガラスには色むらや製造工程で発生する内泡などで、2~3割程度のロスが発生するほか、一人だと小さいものでも一日20個程度しか生産できないという限界もあり、販売するための在庫を製造することができず実現には至りませんでした。

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