コロカ事業

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岡山・倉敷帆布のバッグ


 

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帆布ができるまで

帆布の製造工程の中で特に神経を使うのは、タテ糸を作る作業だそうです。タテ糸が1枚のシートに見えるよう、きれいに巻かれていないと、織機(しょっき)にかけた時に糸が切れたり、機械が止まる原因になってしまいます。そのため、タテ糸をタイコに巻き付けていく「整経(せいけい)」という作業と、おさと呼ばれるすだれのような部品にタテ糸を通していく「経通し(へどおし)」という作業は、すべて手作業で、丁寧に行なわれています。

そして、倉敷帆布の象徴とも言えるのが、昔ながらのシャトル織機(しょっき)で平織りするとできる、織物の耳「セルヴィッジ」が付いていることです。美しく整ったセルヴィッジは倉敷帆布ならではの特徴で、このセルヴィッジをデザインとして利用した商品もあります。

 

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日本の帆布の原点は?

日本の近代帆布の歴史にはさまざまな説がありますが、兵庫県の高砂にいた工楽松右衛門(1743〜1812)が基礎を築いたとする一説があります。松右衛門は太い糸で織ることができる織機を開発し、それまでなかった丈夫で質のいい綿帆布を作りました。当時、松右衛門の綿帆布は画期的だと評判になり、航海技術が一変したとも言われています。

「松右衛門が偉かったのは、その技術を独占しなかったことです。北前船に乗っていろいろな港を回りながら、織機の使い方や技術を教えていきました」

と、武鑓さん。

そして倉敷にも、帆布を織るための織機とその技術が伝わったのです。

 

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なぜ帆布の産地に?

瀬戸内海沿岸は、かつて農業の余暇として、綿花の栽培が行なわれた地域でした。バイストンのある倉敷市児島地区も、江戸時代から綿織物は代表的な産業でした。

明治21年(1888)、倉敷に大きな紡績工場ができ、下請けとなる織物工場がたくさん誕生しました。倉敷帆布の原点となる厚織り物工場「武鑓織布工場」も、同年に創業しました。じつはバイストンという社名は、創業者の"石"五郎と妻の"梅"からそれぞれ一字ずつ取ったものなのだそうです。

そして明治時代中頃から、厚手の綿織物で作られる足袋の生産が盛んになっていきます。

「帆布を作るには、撚糸(ねんし)といって、いくつかの糸を縒って太い糸を作る技術が必要です。通常の織物は単糸(たんし)で織りますから、撚糸の技術はどんどん廃れてしまいました。でも倉敷は厚手の綿織物を得意としていたので、撚糸の技術が廃れず、帆布の産地として最後まで残ったんです」

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