コロカ事業
香川県東かがわ市・羽根さぬき本舗
- 店舗レポート
源平合戦の時代へ
高松駅より特急うずしおに乗り40分程で引田(ひけた)駅へ、さらに1駅先の讃岐相生(さぬきあいおい)駅へは乗り換えて3分で到着です。讃岐相生駅からは徒歩で5分程歩くと、目的地である三谷製糖 羽根さぬき本舗です。
高松から徳島へ伸びるJR高徳線の香川側最後の駅である讃岐相生駅から徳島へ向かうには、平安時代の文献から名前の残る、県境の大坂峠という九十九折りの急勾配を超えていきます。
羽根さぬき本舗のある、馬宿という地名は平安時代に、源義経が屋島の合戦に参戦するため、大坂峠を越え徳島から入ってきた際に馬を休めた場所として、名付けられたそうです。
到着すると穏和な笑顔で、八代目となる三谷社長が出迎えてくれました。
甘い香りとリズム
国の重要有形民俗文化財に指定されている店舗に入ると、甘く、酒蔵のような発酵に似た香りがほんのりと漂い、コンコン、コンコンとリズム良く干菓子を作る音が聞こえます。
入り口横の商品を眺めながら奥に通されると、お茶と一緒に和三盆糖の干菓子をいただきました。
趣のあるテーブルや調度品に囲まれながら、さっそく三谷社長へ和三盆糖の歴史についてお伺いしました。
和三盆は、讃岐三白(さぬきさんぱく)と呼ばれ絹・塩と並び松平・高松藩の、特に江戸時代後半の経済的な礎でした。
讃岐を代表する特産物まで育ったきっかけは、松平・高松藩中興の祖と言われる五代藩主 松平頼恭(まつだいらよりたか)なのです。
藩の医師として活躍していた平賀源内(ひらがげんない)に、当時高価であった砂糖の栽培技術を研究させました。
当時の砂糖といえば、薩摩藩の黒糖が一般的でしたが、高価な産物なので薩摩藩外へは秘伝として一切技術も情報も出されていません。
平賀源内の後を継いだのは同じく藩医の池田玄丈(いけだげんじょう)でしたが、池田玄丈も最終的には栽培技術を確立するには至りませんでした。
確固たる技術として確立させたのが、藩医の向山周慶(さきやましゅうけい)です。
五分の一
向山周慶が成功したきっかけは、たまたま四国でお遍路さんをしていた、薩摩の関良助が倒れていたのを助けたことでした。
助けられた恩に報いるため、関良助は禁をおかして甘藷(さとうきび)を讃岐へ持ち込み、栽培技術が確立されました。
ところが、讃岐の土地で作られた甘藷では、土質が全く合わなかったためか、従来の黒砂糖の製法ではクセのない甘さが控えめな良い黒砂糖は出来ません。
さらに精糖技術の研究が続けられ、甘藷の絞り汁を炊き、アクを取りながら蒸発させ作られる茶褐色の白下糖から、さらに糖蜜と呼ばれる褐色の液体を抜くことで、白砂糖「和三盆」が作られたのでした。
精糖技術はその後何台にも渡り、改良が続けられることになるのですが、この技術自体も実は高松藩の秘密として製法は向山周慶から直伝で5軒の生産者にしか伝えられていません。
三谷精糖は200年前に直伝を受けた、5軒のうちの1軒で、現在は直伝を受けた家は三谷製糖しか残っていないのだそうです。
ちなみに、向山周慶と関良助と共に、二人の名前からとった向良神社(こうらじんじゃ)に祀られ、砂糖神と呼ばれているとのことです。