コロカ事業

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新潟県糸魚川市「加賀の井酒造」を訪ねる

 

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西と東の間

越後湯沢より特急はくたかで1時間、広い新潟の西端・糸魚川(いといがわ)市に到着です。
電車の中では、糸魚川直前で電源周波数が東西で変わるポイントのため、車内の電灯が一旦消える不思議な風景に立ち会えます。
糸魚川と静岡をつなぐ、大きな断層は糸魚川静岡構造線と呼ばれ、その線上には日本アルプスがあり、東北日本と西南日本に分けられます。
西と東が物理的に合流する町、糸魚川。その糸魚川で江戸時代初期から日本酒造りを続ける、加賀の井酒造でお話をお伺いしました。

 

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越後なのに加賀

糸魚川市は江戸時代、越前松平家の支藩・糸魚川藩でした。
北陸道と千国道の交差点で、軍事・交通の要所として宿場町が形成し、繁栄しました。
その糸魚川で1650年(慶安3年)から酒造りをしているのが、今回お伺いした加賀の井酒造です。
17代目蔵元小林幹男さんの息子さん・大祐さんに加賀の井酒造の成り立ちと、なぜ越後国の中にありながら、加賀の名前を冠しているのか、まずは聞いてみました。

 

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加賀の前田公

加賀100万石で知られる加賀国の領主・前田公は、参勤交代で北陸道を使いました。
宿場町に設置される殿様の宿舎「本陣」を糸魚川では、加賀の井酒造の小林家敷地内に設置されました。
三代・利常公に自分たちの作る日本酒を献上したところ、非常にこのお酒を気に入り、越後国なのに関わらず「加賀」の名前を使う事が許可されたそうです。
そうして出来た銘柄が「加賀の井」なのでした。
その後も、糸魚川での本陣としての役目は参勤交代制度を含め江戸幕府が解体される幕末まで続きました。
ちなみに、参勤交代は北陸道を使うよりも、東海道もしくは中山道を経由して江戸へ向かった方が経費は安かったものの、外様大名故に親藩が多い道中で、大名行列が「下にー下にー」と言えないため、外様大名の多い北陸道を使ったという説もあります。

 

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