コロカ事業

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徳島・阿波正藍しじら織


 

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生産中断から復活へ

その後「阿波しじら」は一気に普及し、明治20年ごろには年間生産高150万反(1反で着物1着分)となり、徳島県内には200軒を超える工場が設置され、5千人を超える従業員が働くようになります。

大正8年ごろ最盛期を迎えた「阿波しじら」ですが、昭和12年、ほかの織物の進出や戦争の影響を原因として、政府の指示により生産が中断されてしまいます。

終戦後、高度経済成長期に差し掛かる直前の昭和28年、原料統制の時代も終わり綿が自由化となったことをきっかけに、「阿波しじら」を「藍染(あいぞめ)」と掛け合わせて復活させた会社が「長尾織布」なのです。

 

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藍染とは

藍染とは、古く中国から日本へ伝えられたもので、収穫し乾燥させたタデ科の植物「藍」の葉を発酵させた「すくも」という物にアルカリやブドウ糖などの栄養源を入れ、発酵させて作った天然染液を使った染色のことです。

もともと江戸時代に阿波の殿様・蜂須賀公(はちすかこう)が、吉野川流域の気候風土を考え、台風が多いこの地域は米の栽培に適していないということで、短期間でも栽培できる藍を奨励したことから徳島で藍が根付きました。

藍の主な栽培地は吉野川の流域で、藍住町、石井町、上板町の3つの町が主たるところのようです。

「阿波しじら」と「藍染め」を掛け合わせて製造する長尾織布では、「阿波しじら」で使用される原糸を藍で染めてから糸繰(いとくり)、整経(せいけい)、機織(はたおり)、仕上げ乾燥という工程を経て「阿波正藍しじら織」を完成させます。

 

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高度経済成長期

「なんぼ作っても売れる時代やった」

長尾織布が「阿波しじら」を復活させた後、昭和30~40年代の日本は高度経済成長期の真っ只中で、日本全国どんな産業でも作れば作った分だけ売れるという時代でした。

その高度経済成長に加えて民芸ブームの波も起こり、徳島では「阿波しじら」だけでなく、大谷焼や和紙なども復活したのだと藤太郎さんは話します。

その頃、徳島では4社「阿波しじら」の製造を行っている会社がありましたが、その4社で30万反を製造し、その内の半分を長尾織布で製造していたのだそうです。

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