コロカ事業
山口県萩市「泉流山」を訪ねる
- 店舗レポート
明治維新と萩焼
明治維新を境に萩焼を取り巻く環境も激変します。
価値観の急激な変化に伴い、武士階級のたしなみとして珍重されていた茶器の需要が一気に下火にっただけでなく、御用達であった長州藩自体も県になることで萩焼は庇護を失い、苦境の時代に突入します。
しかしながら、逆に藩の縛りがなくなったため、御用窯から独立し、創窯をする人も増えました。
長い雌伏の時を経て萩焼が再び脚光を浴びるには、太平洋戦争終了後、昭和の高度経済成長期まで時間がかかるのでした。
高度経済成長と新技術
昭和30年頃から50年頃にかけて、日本は高度経済成長と呼ばれる飛躍的な経済規模の拡大期を迎えました。
新たな技術が開発され、萩焼の世界にも、それまで利用していた登り窯に代わるガス釜や、蹴りロクロに代わる電動ロクロなど、大量生産が可能な仕組みが導入されました。
また、高度経済成長に伴い経済的な余裕が出来た人々により、江戸・明治と重要な役割を担い多くの歴史的人物を輩出してきた萩は、観光地として一躍脚光を浴びました。
それにともない窯元も一気に増え、一気に萩焼業界が活気づいたのです。
泉流山の萩焼
泉流山は前述の通り、長州藩の政策として作られた磁器窯ですが、大正年間に萩焼の窯元へと変化を遂げていました。
泉流山の萩焼、さらに現在の萩焼の流れを語る上で、外せないのは將夫さんの父、故・吉賀大眉(よしかたいび)の存在です。
出自が御用窯ではない窯元の子供として生まれた大眉は、大学で美術を勉強し、萩焼の作家ながら様々な展覧会へ出展し、美術品として萩焼を認めてもらう活動を行いました。
この活躍が、商業用陶磁器とは違った御用窯、大量生産に継ぐ、萩焼窯元のスタイル、個人作家という流れを作ったのです。
吉賀大眉の萩焼
吉賀大眉は、古萩への回帰を計り、井戸茶碗を目指した茶碗の制作に励み、大眉茶碗と呼ばれるまでの作品を作る一方で、「日展」とよばれる日本美術展覧会への出展も行いました。
美術品として、それまでの萩焼にはなかった花器等を作り、日展で認めら、数々の受賞を経て、花器が萩焼の一ジャンルとして認められるまでになったのです。
大眉の残した功績は大きく、出自が御用窯の窯元しか商売が立ちゆかなかった時代に、個人作家として活躍できる時代を作り、茶器以外にも、生活雑器としてコーヒーカップ等萩焼の多様化を推し進めたのでした。