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竹虎の虎斑竹細工


 

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天然記念物第一号

虎竹に惚れ込み、虎竹しか扱わなくなった竹虎。もともと竹虎の屋号は「竹亀」でしたが、虎竹ばかり扱う山岸竹材店は周囲から「竹虎」と呼ばれるようになっていきます。

そんな中、明治44年。この頃はまだ、岡山県真庭市にしか虎竹が自生していないと認識されており、非常に珍しい虎竹は国の天然記念物として保護されることになりました。

実は、これが日本の天然記念物保存法の始まりで、虎竹は天然記念物の第一号だったのです。

日本の天然記念物保護法の出発が虎竹の保護のために始まったとは、なんとも驚きです。

 

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大阪から安和へ

宇三郎さんは岡山の竹が天然記念物になると聞いて、「虎竹が切れなくなる」と思い、全国各地を探し回ってこの安和の地を見つけたのではないかと四代目は話します。

安和の虎竹を知り、さっそく商売を始めた宇三郎さん。大阪と安和を行き来する生活が始まり、やがて宇三郎さんはこの虎竹の里・安和の山主の娘と恋仲になり結婚します。その後、戦争が起こり、大阪が焼野原になってしまったことをきっかけに、安和を疎開先に選び永住を決めたのでした。

ちなみに、安和の虎竹は世界的な植物学者であった牧野富太郎さんにより土佐虎斑竹と命名されました。1916年(大正5年)のことです。

 

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引き継がれていく竹虎

そして、戦争が終わり戦地より帰還した2代目・義治(よしはる)さんが、父の宇三郎さんの意思を受け継ぎ、新天地・安和で竹虎を再開させます。

再開直後は、製竹した竹そのものや雑多な物を作っていましたが、次第に縁台や庭園用品にはじまり、花かごやお茶・お花で使われるような生活用品を竹で作るようになります。

この頃の売り方は、毎週2回ほど10トン車で関西の問屋までピストン輸送し、作った竹製品を卸していくという形で、小売はせずに卸売りだけを専門に行っていました。

そんな中、1970年頃に四万十川ブームが起こったことも一つの転機となります。

現在の竹虎本社が面している国道56号線は、その頃はまだ高知市から四万十へ移動する唯一つの道でした。四万十川ブームよって、56号線の交通量が増加したことをきっかけに、義治さんは店舗を設け小売を開始させます。小売を始めると、次第に商品数が増え様々な竹細工を生産するようになっていきました。

3代目・義継(よしつぐ)さんの代になると、卸しが下火となり、物産展などの出張販売を行いながら、デパートなど販路拡大に力を注ぎ始めます。

しかし、90年代に入るとどこの業界も不況の嵐。竹材業界も例外ではなく、その煽りを受けます。

デパートの催事も売上が低迷し、廃業になる竹屋が全国でも相次ぐ中、そこで、取った一つの手段が効を奏します。

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