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奈良・奈良吉野いしいの柿菓子

 

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シルクロードの最果て

西暦710年。元明天皇が行った平城京への遷都により、日本の中心地として栄えた古都・奈良。
「シルクロードの終着点」と呼ばれた平城京は、アジア全域、果てはヨーロッパからシルクロードを経由して当時の中国・唐を経由して、集まった文化が「天平文化」として花開いた場所です。
その奈良の中心部、JR奈良駅東口もしくは近鉄奈良駅5番出口から、徒歩で約5分の位置に今回お伺いする、「奈良吉野いしい 三条通り店」はあります。
「奈良吉野いしい 三条通り店」は、ショッピングモールの奥まった位置に店舗があるため、外からは一目で分かりにくいかもしれません。
三条通りに面したショッピングモール「なら青丹彩チャレンジショップ」は、地図を参考にする場合は、同じく三条通りに面したホテル「ホテルフジタ奈良」を目印にすすみ、道路を挟んで向かいにある、黒い格子が印象的な建物です。
日本での柿収穫量第2位を誇る奈良で、特に西吉野産の柿にこだわった製品づくりをされている、石井物産・専務「石井和弘」さんに、その思いをお伺いしたのは3時間前、本社のある奈良県五條市西吉野町でした。

 

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西吉野の柿

奈良県五條市は奈良県の南西に位置し、奈良県南部の中心都市です。
和歌山県では「紀の川」と呼ばれる吉野川と、南北朝時代に活躍した楠木正成の居城など正成にゆかりの深い金剛山を中心に、高い山々に囲まれた山間都市となっています。
「奈良吉野いしい」がある西吉野町は、2005年にこの五條市に編入された旧・吉野郡西吉野村で、南北朝時代には南朝の後村上天皇が皇居をうつし、南朝の首都となっていた場所なのです。
そんな西吉野の名産品は、柿です。

柿は中国が起源といわれており、日本へは奈良時代に伝来したと言われています。
北海道を除いて、柿を栽培するために非常に適した気候だったこともあってか日本全国で栽培が始まり、中でも奈良県は伝来前後で文化の中心地であったことや、栽培に適した年間平均気温と山がちな地形のおかげで古くから生産が盛んで、和歌山県についで年間の柿収穫量は2位です。
西吉野はそんな生産量の多い奈良県の中でも、特に山間地ということで水はけが良く、適度な寒暖差も相まって、市町村単位では生産量日本一の産地となっています。
柿の木々が太陽の光を求め青々とした葉を伸ばす5月、梅雨を先取りした雨の降るなか、我々は石井物産に到着しました。

 

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頼られる存在

石井物産・三代目に当たる石井和弘さんに、石井物産の成り立ちと、柿製品の製造についての思いをお伺いしました。
初代・勲さんは元々教師をしており、職業柄地域の人々に頼られる事が多かったそうです。昭和40年には石井物産の前身となる個人商店の経営を始めました。
西吉野の農業協同組合長や県の果樹連合会組合長を着任する一方、販売できないようなキズモノや熟しすぎた柿の処理方法について、生産者と一緒に随分頭を悩ませていたそうです。
西吉野だけでも年間300~500トンにも及ぶ、廃棄となる柿はすべて山に埋めていたのです。
しかし腐敗臭が漂い、台風などが発生すると廃棄した柿が川に流れこむなど、大きな影響を与えていました。
そんな地元の生産者の思いをうけての試行錯誤は、二代目にも引き継がれていくのでした。

 

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受け継がれる思い

二代目で現社長の光洋さんは当初、大手家電メーカーの設計者として、全く別の仕事についていました。
30代半ばで独立し、個人商店を継いだ光洋さんは、当初は地域の特産であるミョウガの塩漬けや、きゅうりの漬物等を製造していました。
設計者の経験を活かしミョウガの洗浄機を自作するなど、その後の展開を予感させるお仕事をされていたそうです。
そして、父の代からの悩みは柿の加工商品として、一つ一つ陽の目を見ていくのでした。
最初にできた商品は、みょうがの塩漬けに使っていた樽を利用して作られた「柿酢」です。
この商品が、西吉野の柿をブランド柿として売り出したいと考えていた、初代の思いとともに新たな柿商品の開発へとつながるのでした。

 

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