コロカ事業

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和歌山県有田郡湯浅町「湯浅醤油」を訪ねる


 

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技術の伝播と明治維新

醤油の一大生産地となった湯浅。この湯浅の醤油は総称として「湯浅醤油」と呼ばれていました。
その醸造技術は漁業と共に、小豆島、千葉等、現在も醤油醸造が盛んな地域へとつたえられていきました。特に千葉では、地名や方言なども和歌山と通じる部分が多く、その名残を今ものこしています。
藩のお買上げ制度により安定した収入を得ることの出来た醤油醸造に大きな影を落としたのは、明治維新でした。
幕藩体制の崩壊に伴い、醸造しても買い手がわからず、小さな醸造元は軒並み廃業もしくは転業を余儀なくされます。
また、大手醸造元の銘が書かれた醤油瓶を使うことが、一種のステータスとなったこともあり、ますます消費者が離れていくこととなりました。
現在では、湯浅町で醤油醸造を行う会社は4軒となってしまったそうです。

 

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金山寺味噌屋と醤油屋

転業した醸造元はその後どうしたのか。答えは金山寺味噌の醸造元となることでした。
和歌山では常に食べられる、米をお茶で炊いた茶粥(ちゃがゆ)に金山寺味噌を共に供するなど、文化として定着していました。
また、小さな醸造元しかないため、淘汰もされず醤油から味噌への転向をはかる会社が多かったそうです。
もう一つ、大きな理由があります。それは代金の回収方法でした。醤油は基本的に年に二度、盆と正月にそれまでの購入分を支払う仕組みが、全国的に広まっており、今でも一部地域では残っているそうなのです。
一方、味噌については都度の支払いとなるため、短期的に手元にお金がくるタイミングが醤油より早いため、多くの会社が金山寺味噌へ転業されたそうです。

 

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湯浅での醤油造り

湯浅醤油の前身は、今も金山寺味噌を造り続けている、明治14年創業の丸新本家でした。
しかし、醤油醸造自体は新古社長の父の代で一端やめていたそうです。
しかし、醤油発祥の地・湯浅に生まれ、減りゆく醤油醸造元の現状に、自分自身がただ単に醤油を作るのではなく、先人の技術や知恵を伝えていきたいという思いから、湯浅醤油と名で再度醤油造りを始めたのでした。
古くから通る名ではなく、全国的に醤油醸造元が減る中での、立ち上げ。周りからは反対の声がたくさんありましたが、それらの声を押し切ってでも始めないといけないという思いが新古さんにはあったのでした。

 

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試行錯誤の日々

2003年、国産原料はもちろん、丹波黒豆を使い昔ながらの製法で丁寧に作った醤油「生一本黒豆醤油」を作りました。
ヒントは世界最古の農業書物と言われる「斉民要術(さいみんようじゅつ)」に記載のあった、醤(ひしお)とよばれる金山寺味噌の、ひいては醤油の起源とされる食品で黒豆を使っていたという記述でした。
商品の出来映えには大変自信がありました、しかしなかなか売れない。「高すぎる!」原材料にこだわり、昔ながらの製法で作ったために、どうしても一般に市販される醤油とは異なりました。
しかし、地道にこだわりを持って生産・販売を続けた結果、テレビに取り上げられ、一気に火がつきました。
そして、その実力は海外にも伝播していくのでした。

 

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