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Chapter 1

 軍用の小型艇だった。偵察任務に使われていたものらしい。こんなに小さな船に命を託すのかと思うと、目眩がする。
 本当に、冗談みたい。
 もちろん私に選択肢は無かった。
 あの場で生き残ったのは、きっとそういうことなのだ。私は生きて罰を受け続けなければならないのだ。
 それだけの罪を犯したのだから。

 ——あの日以来、どれだけ泣いたかわからない。どれだけ叫んだかわからない。あんなに惨めな気分になったことはない。何かが出来ると思いこんでいた自分を殺してやりたい。
 感情を出し尽くしてしまうと、後には何もなかった。
 私ことフェイ・エルデは淡々と任務を受け入れていた。

 見送りには誰もいないものかと思ったが、多くの人が集まった。これが処刑なのだとしたら、なるほど大した見ものにはなるだろう。
 人々は瘴気を避けるための顔まで覆う防護服を纏っており、外気に肌を晒しているものは僅かしかいなかった。
 ヘルメットのお陰で、私は見送る人々の顔を見なくて済んだ。彼らの顔に浮かぶ表情は、おそらく憎悪なのだろう。あの日何人が死んだのか、私には尋ねる勇気が無かった。ここにいる人々の多くは、家族を失っているのだ。
 この私が、失敗したから。

 船は沖に出た。故郷はあっという間に点になり、水平線の向こうに消えた。——海は、赤く淀んでおり、岸辺から見るのとはまた違って見える。
 より毒々しく、そして生々しい。何より——
 本当に血のように見える。
 空もまるで——熾火(おきび)のように赤い。
 一面の赤の中を、私達の小舟が進んでいく。

 沖に進むにつれ、瘴気が濃くなっていくのがわかった。無論、私には瘴気に対する備えがある。備えがなければどうなっていることか。瘴気の混じった空気を吸えば、肺が腐る。肌に触れただけでも、皮膚が腐る。体内に入ったら、まず助からない。
 私の体に刻まれた術式と、ルーンが無ければ……私はこの致死量の瘴気の中で為す術もなく死んでいるはずだった。

 命の力であるソウルが何らかの影響により病み、命を蝕むようになったものを瘴気と呼ぶ。瘴気はいたるところに存在した。空気にも、水にも、大地にも。
 赤い空の広がる下に、汚染を免れた場所はない。
 人間が存在できるのは、人工の環境の中だけだった。
 数千年をかけて人類はその環境を少しづつ広げ、今に至っている。人間がどうしてそこまで足掻いたのか。私には少しだけ解る。
 汚染と共に潔く滅ぶ……なんていう選択は、当事者にとってはありえない。
 そういう選択をした人間もいただろうが、とっくに死に絶えているはずである。私達は人間の中でも特に諦めが悪かった連中の、成れの果てだ。

「瘴気結晶は、積めるだけ積んだ」

 船の操舵装置を握る男——ガルガは、こちらには目もくれない。水平線の向こうをじっと見つめている。この船に乗っているのは、彼と私だけ。

 ガルガは相変わらず、必要最小限のことしか話さない。私にはそれが有難かった。下手に気を使われては、こっちも困る。

 瘴気結晶の発する激しい瘴気が、防護壁ごしにも伝わってくる。触ることさえできそうな濃い瘴気。
 ——瘴気結晶。
 私達の世界を汚染し続ける瘴気は、あの忌まわしい結晶体から放たれている。
 瘴気結晶がある限り、瘴気が晴れることはない。だがこの結晶は、強いエネルギーを生み出すことから燃料には最適なのである。私達の文明を成り立たせているのも、この結晶のエネルギーに他ならなかった。私達は、世界を汚染する存在に依存した暮らしを続けていたのである。

「目標は追えているんですか?」

 私は、あえての確認をする。
 お互いに黙ったままなのは、どうにも気まずい。
 これから死ぬとはいえ、お互いに嫌な感情を抱きながら死ぬこともないだろう。……ガルガもそう考えているといいが、望み薄かもしれない。
 なんだかガルガからは、訓練された鈍感さを感じる。これも戦士の資質なのだろうか。

「瘴気の痕跡が残っている。ギリギリだが、追跡は可能だ」
「安心しました。接敵後の作戦案を伺えますか?」

 私の声には、少しだけ皮肉が混ざってしまっていた。もしかしたら、私はガルガと絶望感を共有したかったのかもしれない。
 でもガルガは、お構いなしだった。

「俺の間合いに捕まえて、一気に討ち取る」
「具体的ですね」
「仕損じれば、俺はそこで終わりだ」

 事実だった。
 それをいったら、私はもう終わっている。私は終わりの続きをしているだけだ。私だけじゃない。この赤い海で生きる全ての人がそうだ。 
 私達はずっとずっと昔に滅んでいた。
 瘴気の汚染が広がった理由はわかっていない。わかるのは、これも罰だということだけ。正直、今の世代の私達に責任はないと思う。あってたまるかと思う。どうして私達が顔も知らない先祖のために苦しまないとならないのだろうか。こんなの不条理だ。それをいったら、だいたいなんで私がここまで落ち込まないといけないのだろうか。

「あなたは、それでいいかもしれませんけど……」
「……船の操縦にも慣れておけ」
「自分が死んだら、後は一人でどうにかしろと?」
「俺が討たれた場合の状況によるが、情報を持ち帰ることを優先すべきと考える」
「この期に及んで、優先事項があるんですか?」
「いかなる状況であろうと、優先事項はある」
「あなたは合理的ですね。こんなに状況が不条理なのに」
「不条理に対して不条理をぶつけても、物事は解決しない。……とはいえ俺たち討滅士は、存在そのものが不条理だがな」

Chapter 2

 私には答えられなかった。
 ガルガがそのように想うのは、当然だった。ガルガは——
 瘴気を避けるための術式の刻印も、ルーンも、持ち合わせていない。
 彼らには不要なのだ。ガルガたち——討滅士には。
 私達の先祖が、この赤い海の頂点捕食者に対抗するために作り上げた、人の姿をした兵器。それが討滅士だった。

 小型艇での暮らしには慣れなかった。なんといっても生活空間が狭い。
 その上、常に揺れていることもあり、心が休まる暇がない。

 でも、個室が使えるのは助かった。室内ならば、瘴気も抑えられるため、少しだけ空気が美味しい感じもする。窓すらないうえに照明はルーン一つ。部屋の中は常に薄暗いし、やたらと固いベッドは、ちっとも私の重さを受け止めてくれない。とはいえ独房と考えると贅沢な環境であるし、波の音さえ気にならなければ、孤独を楽しむことさえ出来そうだった。

 しかし贅沢に一人の時間を楽しむというわけにはいかなかった。
 私は結局、そこまで強くも図太くもないのだ。私は自分に与えられたこの独房で、己を責めるという不毛な行為を繰り返していた。裁判長、フェイ・エルデ氏はフェイ・エルデ氏による精神的苦痛を味わっています。判決、フェイ・エルデ被告を禁錮刑に処す。

 この独房では囚人が看守も兼ねている。食事は一日二回。携帯食料は一年分用意している。全部耐熱携帯食だ。軍用の非常食であり、カロリーだけやけに高い。食べられないほどまずくはないが、食欲が湧くほど美味しくはない。

 船には海水を浄化できる機能が備わっているため、飲み水には困らない。体を洗えるだけの水さえ手に入るくらいだ。これも有り難い話だった。
 数秒後に船が沈むかもしれなくても、毎日体を洗うし、食事もする。生きてるって、面倒だ。でもそんな面倒の繰り返しが、生きているということなのかもしれない。

 持ってきた荷物は多くはなかった。もとより積み荷の量も制限されている。
 私の私物は着替えとか化粧品とか身の回りのものがごく少数。とはいえ規定量ギリギリになってしまった。荷物の中にはノートもあった。紙というものは遥か古代には植物から作られていたそうだが、現代の紙は石灰と合成樹脂からできている。私が手記をまとめているのもこのノートだ。お陰でかなり気が紛れている。文章を考えるとそれだけで考えがまとまるものらしい。

 ガルガと私は食事を別々に摂っていた。一緒に食事をするのも気まずいし、ガルガに話題を振っても一言で話題が終わってしまうのである。
 その日私は、珍しいことに食事中のガルガと出くわした。

「……ええと、何を齧ってるんです?」
「干し肉だが」

 もちろん、わかってはいた——
 討滅士が、あれを食べることを。私は、ガルガがそれを噛み砕いているのを見て、戦慄した。ガルガの手にある干し肉は、毒毒しい紫色をしている。
 咀嚼音は岩が砕ける音に似ていた。干し肉を食べている音ではない。

「どんな味なんです?」
「コールタールの味がする」
「……そうですか」

 私が言葉を選んでいると——やおらガルガは干し肉を捨て、武器を構えた。
 その武器は私にも見慣れたものだった。ある種、この私の存在意義ともいえるものである。
 ——討滅器。
 討滅士がたずさえる武具である。
 討滅器は、瘴気を吐き出しながら唸り声を上げた。まるで生き物のように。
 これは生きている。生物として生きているのかは微妙であるが……

「群れが近づいている」
「奴らが……!」

 遂に来た、と私は思った。波間に浮かぶ私達の船が、檻であるならば。
 あれは処刑人と呼べるかもしれない。
 ——命滅獣(メギド)
 この環境で、瘴気に満ち溢れた最悪の環境で、我が物顔で生きる生命体。人類最大の脅威……だが、奴らは人類の天敵などではない。
 命滅獣は人類など、歯牙にもかけていない。餌ですらないのだ。

「……迎撃する」

 わずかに言い捨てて、ガルガは討滅器を構えた。
 間髪入れず、奴らが小舟に殺到する。一体一体の大きさは、この船に匹敵した。中型の群生タイプである。

 その姿は、魚に似ている。私達、赤い海で生きる人間たちは、魚を養殖して食用にしていた。もちろん、赤い海に普通の魚は棲めない。
 魚は先祖たちが残してくれた貴重な遺産の一つである。現在以上に文明が進んでいた古代社会において、食糧生産は重要な課題だった。よって先祖たちは、水槽で魚を育ててみることにした。そして万が一のため、シェルターの中にも水槽を持ち込んだ。お陰で私達は、魚を食べることができる。
 今食べられるのは、私達だが。
 飛沫の中から獣が迫る。巨大な顎が開き、まばらに生えた歯が見えた。鋭利ではなく、鈍器めいた歯である。
 ガルガは、冷静だった。変な話だが、手慣れてすら見えた。
 間髪入れず、ガルガは飛びかかった怪魚の腹に討滅器を突き刺す。ただ一撃である。怪魚は腹を突き破られ、真っ二つになった。
続けざまの襲撃。ガルガは己の腕を魚の眉間にめりこませ、そのまま——
 魚の脳天を砕いた。
 化け物じみた、その戦闘力。これみよがしの振る舞いとは違う、獣じみた効率性。どうしてここまで簡単に……頭を戦うことに切り替えられるのだろうか。

Chapter 3

 私も自分の専用装備を構える。
 これは討滅器ではなかった。複数のルーンが埋め込まれた私の装備は、槍といえば槍に見えなくもない。もちろんこれは護身用に使うこともできたが……
 本来の用途は別に存在している。ある意味においてこれは、赤い海でも最も呪われた人工物といえるだろう。そしてそれを振るう私も、忌むべきものだろうか。
 ——そんなの知ったことか。

「ただじゃあ、やられないから!」

 柄にもなく叫んでみた。ぶっ殺してやる、でも良かったのだが——
 むしろ、今の気持ちを表すと、もっと汚い言葉になるような気もしないでもない。
 なのであるが、慎みというものを忘れてはいけない。なんというか人として。

 ——ふいに轟音が響く。
 甲板を、閃光混じりの衝撃が横切る。

 敵が……命滅獣が、瘴気を吐き出した。
 命滅獣の体内で高められた、高圧の瘴気だった。 

 私は甲板を転がりながら、とっさに回避したが……隙ができてしまう。致命的な隙が。私は、足にしびれを感じた。直撃を避けても、瘴気の影響は免れない。これが命滅獣だった。
 奴らは瘴気を受け付けないどころか、瘴気を吸収して力に変える。赤い海は、命滅獣にとって願ってもない最高の環境だった。さらに——このように、瘴気を己の武器にする。
 化け魚は、小舟に突進し——牙を剥いた。

「……この……!!」
「はっ!」

 一閃だった。
 海中から飛び出したガルガが、討滅の器を振るう。
 私の目では、その刃を捉えることはできなかった。
 だが、ここからでは間合いは遠いはず——!

「ガルガ!」

 叫んだ。しかし——
 苦悶と思しき、金切り声。命滅獣の頭部が、両断されていた。
 血しぶきと共に、獣は海に沈む。

 ガルガの手にある討滅器より、まだ瘴気の残滓がある。
 だが命滅獣を断ち切ったのは、討滅器の刃ではない。
 ——瘴気の刃だった。瘴気を食らう命滅獣をして絶命させる程に高められた、命を蝕む命による一撃。
 討滅士とは瘴気を操る戦士なのである。
 命を拒むこの汚染された海で、人間が唯一持つ実力行使手段。それが討滅士だった。

 小型の命滅獣が引き寄せられた理由がわかった。
 眼の前にある巨大な屍に、私は息を呑む。大型船……いや、島ほどの大きさがある命滅獣。——その死体。躯はまだ新しい。先程の中型は、命滅獣の屍を貪るためにやってきた、腐肉あさりたちであろう。
 ガルガは群れ成した獣たちを三割ほどを討った。
 残りは逃げた——と、いいたいところだが、事実はもっとおぞましい。連中は屍になった同胞を貪り喰らい、満足して海に帰っていったのである。

「骨格と外殻しか残ってませんね……」

 まるでそれは、生物の死骸というより、廃墟のようだった。スクラップの山のようにも見える。
 先程の中型とは、あまりにも大きさが違う。
 だが——どこか似通った形状をしている。
 先程の魚たちと。
 命滅獣は、個体ごとに習性や形状が全く違う。にもかかわらず。
 いずれもその本質は同じ。
 すこし昔の時代……技術が進んで、人の世界の経済規模が拡大しつつあった時代。人間は考えた。技術力が発展すれば、いずれ人は赤い海の支配者たる命滅獣さえも滅ぼせるのではないかと。
 人は、椰子の実ほどのサイズの命滅獣を捉え、実験を始めた。
 記録によれば、その小型種は、目も口も、触覚一つも無く、移動器官といえば一対のヒレだけだったという。餌はとらず、海面で揺られながら瘴気のみを養分にして生きながらえていたらしい。
 科学者たちは、その命滅獣を瘴気とは隔離した環境においた。予想では、命滅獣は瘴気の供給を絶たれ死に至るはずだった。
 だが予想は外れた。獣は自らを仮死状態にしたまま、生きながらえたのである。しかも——
 獣は成長していた。

 一年にわたって瘴気を絶たれていたその獣が、わずか数秒間瘴気の混じった外気に触れたことで急速に成長。体積量は最終的に百万倍になった。
 獣が討伐されるまでに、死者は43名を数えた。

 ——あれは、人間の理解が及ばない化物だ。

Chapter 4

「骨が溶けている」

 ガルガの言う通りだった。巨獣の骨格は、胸のあたりに巨大な欠落があり、その周辺の骨が融解している。何処の誰が、ここまでの巨体に成長した命滅獣を屠ったのだろうか。
 答えは簡単である。この獣よりも強い獣が——
 殺したのだ。

「とてつもない運動エネルギーと熱量をもったものが、胸部を貫通……したようですね」
「——奴か」

 ガルガの一言に、私は無言で首肯する。
 その時見せたガルガの表情を、私は忘れることができない。
 憎しみだけではない。怒りだけではない。ましてや悲しみでも——
 あるのは、純粋な敵意だけだった。——まるで、餓えた獣が、他の獣にむけるような——

 ガルガはあれ以来、言葉を発さない。高速艇の舵を取りながら、水平線の向こうをじっと見つめている。
 時折、波の向こうに輝くものが見えた。
 瘴気結晶である。
 天に向かって隆起するそれは、まるで尖塔のようでもあり、研ぎ澄まされた牙のようにも見えた。そしてそれは、赤い海にもわずかに存在するソウル……命の力を吸収して、瘴気へと変える。

「こんなものがあるから……」
「……見ろ」

 結晶の隆起の多くに、破壊の跡がある。
 亀裂の間から、新しい結晶が生えようとしていた。

「あいつが……壊した……?」
「案外、俺達と同じ気持ちだったのかもな」
「追いつけますか?」
「追い続ければな……」

 ガルガは、たまに当たり前のことを重々しくいう。
 普段だったら、こんな状況でもなければ、ちょっと面白くさえ感じただろう。

「どうします? 世界の果てまで追ってみますか?」
「果てがあるなら好都合だ。そこで決着がつく」
「知ってます? ガルガ。世界の果てには、嵐の壁があるそうですよ」
「聞いたことがある。季節を問わず、嵐が吹き荒れているらしいな」

 討滅士は海の上で戦う。彼らは例外なく海の男だった。
 10数年の戦歴を誇るガルガであれば、一度ならず耳にしていておかしくない話題である。だが——嵐の壁の存在は噂されど、実在を裏付ける証拠はない。
 確かめようにも、外洋への航海は今回のような場合を除いて禁止されている。討滅士たちは幾度も外洋への調査を進言してきたが、実現には至っていない。

「この船で大丈夫なんですか?」
「こいつは頑丈だ。問題は俺の操船だな」
「……今更ですけど、馬鹿みたいですね……二人だけなんて」
「戦えるのは、俺達だけだ」
「……わかってます」
「お前はいいのか」
「……私は……今回の任務が無ければ……きっと、自ら命を断っていました」
「——そうだったか」
「あいつを倒せたら、もう命はいりません」

 初めて、はっきり言葉にできた。

 死ぬというのはどういうことなのだろう。それは眠りに落ちるようなものなのだろうか。だったら、目覚めることがあるのだろうか。自分が完全に消えるということを、人間の自我は死ぬことをどうやって受け止めるのだろうか。
 ……いや、そんなことは、どうでもよかった。
 私は、死を意識することによって、より一層強く、己の命のかけがえなさを感じていた。

 最後に瘴気結晶を見かけてから、数日後。……血のように赤かった空が、どす黒く染まり、激しく荒れ狂っている。
 海は、本格的に荒れ始めた。私はガルガの隣で、後ろの窓を見ていた。
 ガルガも、絶えず後ろを気にしている。

「世界の果てに、着いたみたいですね……」
「さあな」

 ガルガは、またも後ろを振り返った。  私達が気にしているのは、波だった。後ろから来る波に襲われたら、船はひとたまりもなく沈む。

「この先に、何があると思います?」
「わからん。だが、ケリはつく」

 轟音が響いた。波の立てる音であると気づいたのは、数瞬後である。
 眼の前で、波が垂直に立ち上がっていた。
 ガルガは舵を切り、波を避ける。

「……この嵐、異常です」
「瘴気が荒れ狂っている、何かとぶつかり合っているようだ……!」
「ぶつかり合って——?」

 まさか——
 本当に、世界の果てとでもいうのだろうか。

Chapter 5

「俺にも何が起こってるかわからん。……だが、おそらくこの嵐を起こしているのは、瘴気のうねりだ」
「なんてこと……! 瘴気が天候を……!」
「まさに、嵐の壁か。……あれは——これを越えた。この先に向かったのだ」
「——でも、この先に——」

 世界が続いているのだろうか。
 そんなことが——

「つかまっていろ!」

 船が、大きくかしいだ。私は必死で手すりに捕まった。小型艇は木の葉のように舞う。
 私は涙を流していたと思う。死んでもいいとさえ思ったのに、これほど怖い。
 背後から波が迫った。まるで——壁のような。
 垂直の、水の壁が。
 片手で舵をとりながら、ガルガはもう片方の手で、討滅器を握りしめる。

「感じるか、フェイ」
「……ええ」

 目前に、瘴気を感じる。ひときわ濃く、高圧の……まるで、壁のような。
 超高圧の瘴気の固まり。これが、嵐の壁なのだ。
 波と瘴気。二つの壁に挟まれて、私達は生死を彷徨っていた。

「俺が出来るだけ瘴気を食う。背中に回れ」

 背後から、高波が迫る。あれに呑まれたら、一瞬で転覆する。
 だが、先に進んでも——
 嵐の壁に激突する。
 私は、ガルガの背中に手を回した。

「……ここで死ぬんですね……」
「誰が決めた」
「……もう、いくら足掻いたって!」
「俺たちが進むのは、俺達自身が決めたこと!」

 ガルガの手の中で、討滅器が吠えた。
 瘴気が、吸い込まれていく。凄まじい勢いで瘴気を食らう器は、まるで——

 命滅獣(メギド)

「ならば、最後まで貫くだけだ! 俺たちの決めた道を!」

 ガルガの叫びを聞きながら、私は目を閉じた。
 ゆっくりと。
 意識が遠くなる。闇の中に、魂が沈んで行く。

 光が、見えた。
 澱んだ闇の中から、激しい光が垣間見える。
 美しい光だった。まるで命そのものみたいだった。
 錯覚であることはわかっていた。あらゆる命は汚染されている。私の命も、誰かの命を蝕む瘴気となるはずだった。

 でも私は、解き放たれた気がした。
 あらゆる責任から。己の抱える罪から。
 呪われた赤い海から——

Chapter 6

「……でも、私は……」

 やるべきことがあった。
 命よりも重い使命が。
 それはまだ終わっていない。
 フェイ・エルデが解き放たれるのは——今ではない。
 なぜだかはわからない。私は強くそう思った。

「起きろ、フェイ」
「ガルガ……!」

 私はガルガの姿を見て、状況を理解する。
 甲板に転がって倒れていたらしい。
 では私たちは——嵐の壁を越えたのだろうか。あの、瘴気の壁を——

「ええっ……!?」

 私は、驚きを声にしていた。
 瘴気が、感じられない。どうして——?
 周囲を見回して、私はさらに困惑した。
 この明るい光はなんだろう。この、……肌の上を優しく撫でる風は。
 体に染み渡るような暖かさに、私は震えた。

「ガルガ、私達は……!?」

 見ればガルガは、空を見上げている。
 空の色が——違う——
 あの血のような赤ではない。
 青い。
 澄んだ青の、明るい空。
 空を流れる雲は白く——照りつける日差しは、つかの間垣間見た命の煌きそのものだった。

「これは……この、空は……!」
「かつて、空は青かった……」

 聞いたことがあった。
 世界が瘴気に汚染される前、空は青く……海は青く……そこかしこに命が溢れていたという。伝説だった。遠い昔の、おとぎ話だった。
 それが今現実として私達の目の前にある。

「ガルガ、瘴気は」
「……感じられない」

 私は、海に目を移した。
 ああ、それも。
 青い——こんなにも一面の青を、私は見たことが無かった。そして波の間には……魚の影が見える。一匹が、波間で跳ねて銀色の鱗を輝かせる。
 ふいに、頭上を何かが通り過ぎた。
 翼を備えた、白い生き物。

「鳥……なの……」

 絶滅したはずの飛行生物が、風の中を舞う。
 鳥たちは歌っていた。命を称えるように。

「フェイ。俺は今……瘴気ではなくソウルを感じている。空にも海にも、命の力が満ちているようだ」
「私も、そう感じます」
「ここが、嵐の壁の向こう側か——」

 あの凄まじい嵐。あれは——
 ソウルと瘴気がせめぎ合った結果、生まれたものかもしれない。
 結果生まれた嵐は、私達を終わりへと閉じ込める牢獄と化した。
 あの海を抜け出せたのは、奇跡だろう。

「…………ううっ」

 私は、空を見上げながら、泣いていた。
 理由も何もありはしない。ただ、私は生まれて初めて、悲しみ以外の理由で泣いていた。

 ガルガはそんな私は、じっと見つめている。
 獣よりも獣じみていたガルガの姿が、今は普通の人間に見えた。
 獣でも、討滅士でもない。ただのガルガ——

「あいつは、ここにいる」

 息を飲んだ。
 ガルガは、今この瞬間も——
 あいつを追っていたのだ。
 私は瞬時に理解した。私達が追う仇も、あの壁を越えたのだ。

「ここに——」
「そうだ」

 青い空の下に——獣がいる。私達の旅の目的が。

「追いましょう」
「ああ」

 ——私は、船の操舵装置を握りしめた。
 この船を操縦するには力がいる。ガルガは小型艇の操縦を数日ぶっつづけで行うことができるが、私には無理だ。数時間持てばいいところである。
 私が船を操っている時間は、ガルガにとって休息の時間だ。
 ——休めていればいいと思うが。ガルガはいつものように甲板で腰を落としているが、物音一つ立てはしない。
 私は周囲を見回す。波一つ無い、静かな海。
 命に溢れた世界とはいえ、転覆するのはよろしくない。
 この海の先に仇がいる。私達の討つべきものが。
 この先に進むと決めたのは私達だ。
 ならば最後まで抗おう。命滅獣に、瘴気に、不条理に。

「…………」

 今——寝息のようなものが、聞こえた気がした。