Scene 1
逆境の歴史こそ、我らが矜持である。
そう信じて疑わない者たちだけが団結を許され、苦痛を伴う長き忠誠心だけを支えに紛擾の賛歌を捧げる資格を得ることができる。
であれば、誰ひとりとして自分たちのことを秘めたまま終わる者だとは夢にも思ってはいないし、番狂わせと呼ばれるたびに、礼節を尽くし相手を鼻で嘲笑うことも忘れてはいない。
彼らが築き上げてきたひときわ稀有な歴史は、そのままその競技には不可欠な魅惑となり、気むずかしくも愛嬌のある熱烈な常連客たちが今なお世代を超えて生まれ続けているのは、それこそ歴史の必然である。
これが同じ名のJAZZを聴きながら、新聞のスポーツ欄に掲載された試合結果に落胆したときの祖父の言い分だった。
幼いわたしはそれを聞くたびに、応援するチームを変えればいいのにと思い続けてきたことは、それこそ今となっても伝えられていない。
焙煎していたコーヒー豆がハゼた。
気持ち火を弱めると、わたしは2度目のハゼを待った。
コーヒー豆や茶葉、香辛料などと一緒に、“その1杯が店の全てを語る”といわれるジン・トニックの起源も同じくアジアからもたらされた。
その奇跡を知った若かりし頃の祖父は、鞄ひとつでイングランドシャードの地へ降り立ち、バーテンダーとして武者修行をはじめたという。
こうして、ここBar Blue Moonでは、遥か遠く欧州全土が鎬を削った大航海時代に敬意を表し、コーヒー・リキュールを手作りするようになると、2代目を継いだわたしが今年のコーヒー・リキュールを仕込んでいるのであった。
チリチリと2度目のハゼがはじまり、徐々に際立ってきたコーヒーの香りが店内を満たす。
わたしは、この瞬間がたまらなく好きで、いつものように大きく深呼吸したのだが。
「あっ、失敗」
全ての豆をコーヒー・リキュール用に深煎りしてしまったことに気がついて、天を仰ぐ。
「お客さま、来るんだった」
普通に飲むのであれば、焙煎してから数日後の方が風味や味が出揃って美味しいと言われることの多いコーヒー豆。
ただわたしは、深煎りした豆の粗熱が取れたばかりを挽いたものも意外と悪くないと思っているのだが。
果たして本日の来客がそうであってくれるかどうか……。
紅茶と緑茶のストックが、まだあることを確認してから
「お口に合わなければ……」
――縁がなかった――
そう自分に言い聞かせるも、すぐにもうひとりの自分がひょっこり現れて
「いつまで、そうして言い訳しているの?」
としつこく問うてくるので、慌ててスケジュール帳を開き、今日の予定を再度確認して彼女を追い払う。
来客 ワンコ店アゲ 14時
走り書きされた文字が自分自身でも読み難いのは、嫌々書いているからに他ならなかった。
日夜、過渡な生存競争にさらされている東京シャードの飲食業界にあって、ピンクサイクロンを手掛けカリスマ社長と称賛されるマウンテンウィッチの盟華さんが直接陣頭指揮を執って手掛けたマッチングサイト。
その名も『ワンコ店アゲ』――因みに、サイト名の由来は、月額ワンコインで店舗を貸した人も、借りた人も「双方ワッショイっしょ!」とご本人は仰っていた――
もちろん盟華さんが無理強いしたわけではない。むしろあの日の言葉は、わたしの店を想ってのことであったと感謝している。
ただ、わたしとしては
「昼間の店舗ねかせてるの機会損失じゃんって話」
という盟華さんの言葉がずっと耳を離れず、酒場の優しい相談者としての意義すら忘れて、これまた常連のゆみさんに愚痴を零してしまう始末。
「ダメね……」
この店を継ぐと決めたあの日。
戸惑う祖父をよそに、何の相談もせずに勝手に勤め先を辞めた娘を温かく認め、背中を押してくれた両親。
バーテンダーとしてはじめて祖父の横でカウンターに立ったわたしを迎え入れてくれた常連さんたち。
あの頃のわたしには、希望しか見えていなかったのに……。
「でもなぁ……」
ミルを挽く手が止まる。
わたしもオーナーだ。
であれば、機会損失はしたくない。
だけれども……。
「やっぱりなぁ……」
知らない人にお店を貸すことについては抵抗がなくもないというより、ほとんど抵抗しかなく。
「わかってるわ……」
ビルの2階にある店舗でありながらも渋谷区神南という好立地のおかげで、『ワンコ店アゲ』に登録してからほぼ毎日問い合わせを受け、すでに数名の希望者と面談も行ってきたのだが……。
「だって……」
さすがにこの店で、カレーやラーメンが提供されるのかと想像してしまうと、どうしても店舗を貸すことに二の足を踏んでしまう自分がいるのであった――誤解のないように言っておくが、わたしはカレーもラーメンも大好きです――
だからだろう。
問い合わせメールの備考欄に添えられた
――飲食はしませんので火の元はご安心してください――
というメッセージに、どれほどわたしの心が救われたことか。
「良い人だったらいいな……」
自然、心の声がだだ漏れてしまう――けっして今までの希望者が悪い人だったわけではない――
ひとつの愚痴がふたつみっつと重なるとこれほどまでに人間というのは愚痴がでてくるものなのかと自分に呆れながら、ケトルにお湯を沸かし、冷蔵庫から氷水につけたネルを取り出す。
「日常の小さな変化や煩わしさを愉しめないようでは、バーテンダーは務まらない」
そう言って、手入れに手間が必要なネルドリップを教えてくれたのも祖父だった。
この言葉、まさに金言だとわたしは思っている。
なぜなら、バー・スプーンの握り方にはじまり、ミキシング・グラスを使ったステアからバーテンダーの代名詞ともいえるシェークは言うに及ばす、ランプ オブ アイスに代表される氷に対するこだわりまで、例えをあげればきりがないほどにBarには小さなこだわりが詰まっていて、ここにお客さまのこだわりが二乗されるのだから、人によっては煩わしいと感じるのも頷ける。
現に、祖父の実子にしてわたしの実父は、まったくこうしたことを愉しめない性格なのだから。
ハンドルを取り付け、専用サーバーとカップをお湯で温める。
ちらりと時計に目を向けると、針は13時40分を少しまわっていた。
セットしたネルに、さきほど挽いたばかりのコーヒー粉を入れ、小さくお湯を注ぎ蒸らす。
ペーパーよりも豆の脂分を漉す能力が高いネルでドリップしたコーヒーは、不思議と飲み口がマイルドになると言われている。
だからだろう。祖父もコーヒーを淹れるときは饒舌だった。
いくら現役時代に、神南にその人ありと称えられたバーテンダーであってもひとりの人間だ。
泡を立て、ゆっくりとお湯を数回に分けて注いでいく。
こうやって、ひとつひとつの手順を煩わしいと感じずに、手を抜かずに行っていくことで、先ほどまでトゲトゲとしていた気持ちが徐々に和らいでいくのを実感する。
「きっとネルが漉してくれるのね」
店内に大好きなコーヒーの香りが充満し、自然と笑みが零れてくる。
「すみませーん」
声とともにBarのドアが開いた。
「本日、お時間を頂戴しておりました――」
「在賀さんですね」
カウンター越しに声をかける。
「はいっ。ワンコ店アゲでご連絡させていただいた在賀です」
そういいながら折り目正しく礼をした彼女が微笑みと一緒に口にした第一声は
「すごくいいコーヒーの香りですね。わたし、ビター好きなんですよ」
だった。
「飲みます?」
わたしがそういうと
「あ、や、すみません。そ、そう言う意味じゃないんです。ただ、ホント……」
恐縮する彼女に微笑んで、わたしはとっておきのコーヒーをカップへと注いだ。
Scene 2
――株式会社神南サポート――
イングランドシャードのリヴァプールに本部を置く大手人材派遣会社が企業買収しグループ会社化した。
企業認知度が高いため買収後も本社ビルと名称を継続使用している。
登録者のライフスタイルに合わせた働き方を柔軟にサポートすることに定評があり、雇用契約者満足度が高いことで知られる。
アクトレス派遣業は歴史が浅く、登録者数が少ないものの様々なアクトレス事業所へ派遣業務を行っている。
「雇用契約者の満足度が高いのは大事なポイントよね」
「ですね。わたしが言うのもあれですけど、すっごい融通ききますよ」
「そうなの?」
「はい。一般事務職の方のお話なんですけど、子育てしながらワークシェアリングしてる方とかたくさんいるらしいんですよ」
「そうなるとやっぱりわたしも神南サポートにしようかなぁ。お店の都合も優先できそうだし」
「そーなりますかね……って、アオイさん」
「なに?」
「本気で派遣するんですか?」
「もちろんよ」
「夜はお店して、お昼に派遣って……いつ寝るんです? そんなことしたら体こわしますよ」
奈々の表情はいつだってコロコロと変化し、今は本気でわたしを心配してくれているのがありありと伝わってくる。
「それを言ったら奈々だって」
ただ、わたしから言わせれば、奈々の方こそいつ寝ているのか不思議でならない。
なぜなら彼女は、占いの専門学校に通う傍ら、空いたお昼にBar Blue Moonを間借りして占いをしていて、そのまた空いた時間に派遣社員としてアクトレスまでしているのだから……。
「奈々こそちゃんと休んでる? アクトレスって大変なんでしょう?」
「そこは大丈夫ですよ。お昼の占い、まだまだお客さんぜんぜんなんで。正直ヒマですからねっ」
と、自信満々に照れ隠しをしながら微笑む奈々が続けた。
「それに、派遣先でいろいろなお悩みに寄り添えるのは、意外と自分にあってるのかなぁーって思ってたりするんですよ」
どんな境遇にあってもブレずに前を見据える奈々がわたしには眩しく見える。
だからこそあの日、お店を借りたいと言ってくれたのが奈々で本当に良かったと心から思うとともに
「わたしももっと頑張らないと」
素直にそう感じているのであった。
「アオイさんはあれですよ。頑張る前に、ここのお家賃ですね――」
これさえなければ本当に奈々は良い子なのだけれども……。
「あれ? 今なら奈々の紹介で派遣登録するとギフト券がもらえるみたい」
とりあえず話題をすり替えてみると。
「また、そうやって……」
不服そうな奈々の顔を横目にわたしはオンライン登録を済ませたのであった。
・・・・・・・・・・
オンライン登録を済ませてから数日後。
ショーウィンドウには久しぶりのスーツに身を包んだぎこちない自分が映っていた。
「変かな……」
そう独り言ちて、腕時計をみると約束の時間にはまだ少し早い。
名前の通り渋谷区神南にある株式会社神南サポートは、同じく神南にあるBar Blue Moonから徒歩10分もかからない目と鼻の先だというのに、わたしは時間を余していたのであった。
「なにやってるんだろ……」
気負ったつもりはなかったのだが、スーツ姿と同じように何かがしっくりしない違和感が否めなかった。
「やっぱり……」
――やめようかな――
そんな言葉がこの期に及んで自分の口をついて出そうになったことに呆れていると、突然後ろから声をかけられた。
「アオイさんっ」
振り返るとスーツ姿の奈々がそこに立っていた。
「奈々、どうしたの?」
「今、帰りなんですけど、歩いてたらアオイさんかなぁーって思って」
「そうなんだ。スーツ似合ってるわよ」
はじめてみる奈々のスーツ姿は、初々しさと一緒に彼女の人柄を反映しているようで好感がもてた。
「いやいやいや、そんな……。そういうアオイさんこそ似合ってますよ、スーツ」
そう言うと奈々は真剣な顔をしながら
「どうしたらそんなに仕事できる感がでるんですか?」
と聞いてきた。
「なにそれ?」
「え、や、他意はないんですけど……。いいなーって」
そんなことを言われると、なにやら気持ちがこそばゆく。はじめて目にするお互いのスーツ姿を意識しないわけにはいかず、やり場のない気恥ずかしさに包まれてしまった。
「なんか、ちょっと……恥ずかしい……ですね」
「そうね、ふふっ……」
「ですよね、あはははっ」
照れ隠ししながら腕時計に目をやると、もう時間だった。
「わたし、そろそろ行くわね」
「あ、ちょ、アオイさん」
「なに?」
「今晩、お店お休みでしたよね?」
「ええ、そうだけど」
「待ってます。わたし。アオイさんの本登録おわるの」
「え?」
「なので、終わったらご飯一緒にどうですか?」
「どうしたの? 急に」
「いや、なんか、ご迷惑だったらあれですけど……」
「ありがとう。終わったら連絡する」
満面の笑みで頷く奈々に背を向けわたしは歩き出す。
さっきまでの悩みは、不思議なことにもうどこにもなかった。
・・・・・・・・・・
「アオイさん、本登録どうでした?」
「うーん、そうね。正直……」
「あれですよね。思ってたよりあっさりしてますよね?」
「そう、それ。もっといろいろ聞かれるかと準備してたのに……拍子抜けしちゃった」
「それ、すっごいわかります」
そう言って力強く同意した奈々は、自分のときも淡々と登録が終わり、後日アクトレスの適正があったことを告げられて、ひどく驚いたと付け加えた。
どうしてだろう……。
奈々と話をしていると、あれこれ悩んでいたことが嘘みたいに消えてなくなるのは。
「アオイさんは、適正あったらやります?」
「うーん、恐らく……やると思う。そもそもわたしは、収入のために派遣はじめたわけだしね……」
「その理由なんですけど。悪くないとわたしは思いますよ」
「え?」
「アオイさん、悩んでましたよね? お店続けながら派遣登録するの?」
「えっと……それは……」
「その気持ち、わかる気がします。お店で頑張ってるアオイさんのこと見てるからなおさら」
「ちょ、ちょっと急にどうしたの? 奈々……」
「今日わたし、派遣先で聞かれちゃったんですよね」
「なんて?」
「本業は何なのかって」
「えっ……?」
「もちろん、先方も他意はなかったんですよ。話の流れでなんとなく、アクトレスなのか、占い師なのか、派遣社員なのか、どれ?みたいな感じで」
「……そうなんだ」
「で、ちょっと考えたんですけど。ちゃんとお伝えしましたっ」
「な、なんて」
「アクトレスも、占い師も、派遣社員も、ぜーんぶわたしですって!」
奈々は、胸をはって自信満々に言ったかと思えば
「あ、もちろん占い師の比重を一番にしたいですけど……まぁ、いまは、はい」
と、恥ずかしそうに付け加えた
「そっか、奈々らしいわね」
微笑む奈々。本当にコロコロと表情が変わるのだ。
「はい! 何をしててもわたしはわたしですからっ」
屈託ない笑顔で、そんなことを平気で言えてしまう奈々に、わたしは助けてもらってばかりだ。
「ここ、ご馳走するわ」
「え? 急にどうしたんです? 誘ったのわたしですし……」
「いいわよ。もう少し奈々と話もしたいし。デザートか食後のドリンクでも頼む?」
奈々は少し考えこむと
「それならアオイさんのコーヒーがいいですね」
「わたしの?」
「はい、好きなんです」
「え……?」
「ほら、はじめてあったときのちょっとビターなやつ」
「あ、はい」
「あれすっごく美味しかったじゃないですか。あれがまた飲みたいなーって」
「ホントにあなたは……」
「どうかしました?」
「いいわよ。あれならいくらでも淹れてあげる」
そう答えたわたしは、派遣の初任給で彼女の専用マグカップをお礼に買おうと決めたのだった。