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和歌山県紀の川市・観音山フルーツガーデン

 

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柑橘王国・和歌山

JR和歌山駅より40分弱電車にのり粉河駅へ。駅前のタクシー乗り場からタクシーに乗り、さらに10分程すすむと、一面の果樹園の中に3棟のバンガローが現れます。観音山フルーツガーデンに到着です。
「正確な住所が無いんですよ、わかりにくくてすいません。」と、屈託のない笑顔で話しかけていただいたのが観音山フルーツガーデン 六代目・児玉芳典さんです。
柑橘類の一大産地として、また様々なフルーツの産地としても有名な紀の川市で、明治44年より6代にわたりみかん栽培を続ける児玉さんに、早速お話をお伺いしました。

 

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和歌山のみかん

和歌山でみかんの栽培が盛んなのは、気候が最適であるという事もありますが、みかんの元となるこんな逸話があるそうです。
11代天皇の垂仁(すいにん)天皇は、家来の田道間守(たぢまもり)に常世の国(海の彼方の国)へ不老長寿の薬を探しに行くように命じます。
田道間守が10年余りを費やし、「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を持ち帰りましたが、既に垂仁天皇は亡くなっており、お墓に報告をしたものの、嘆き悲しみ死んでしまったと言われています。
田道間守の死後、持ち帰った種から芽生えた木を「たぢまもりの花→たぢ花→たちばな」と呼ばれました。これこそが、みかんの祖先である「橘」のことなのだとのこと。
この種が移植されたのが和歌山県海南市下津町で、橘本神社にはいまでもこの橘が守られているそうです。
こうした由縁により、みかんは和歌山が故郷となったのです。

 

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観音山フルーツガーデンの歴史

観音山フルーツガーデンの創業は昭和37年、4代目・政藤さんの時代です。
初代~3代目は観音山でみかんを栽培し、周辺の生産者から買い付け、販売を行うなど太平洋戦争前・中と「ヤマチョー」の屋号で成功を治めていたそうです。
太平洋戦争後、農地解放により所有していた農園の5/8を失う一方、みかんの海外輸出が国策としてとられ、戦争により荒廃した農園の復興が行われました。
しかし、戦後の経済混乱の中、様々な税制変更や農地に関する法令の変更に伴い、昭和37年に有限会社柑香園を設立し、みかんやはっさくの個人出荷を行うようになりました。
以降も農協や任意団体に参加せず、直売を中心とした、生産を続けています。

 

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こだわりと約束

直売を中心にしている観音山フルーツガーデンならではのこだわりは、やはり直接やりとりを行うお客様に向けて安心・安全な果物を提供したいという点だそうです。
通常スーパー等で流通している果物は、おいしく見えるように表面をワックス処理してあり、輸入物は長い船旅に耐えられるよう防腐剤処理がされています。
観音山フルーツガーデンでは、除草剤や農薬の使用を極力を避ける減農薬栽培をとっています。
除草剤をまかないので、時期によっては雑草が果樹の周りを覆い尽くします。しかし、果樹自体は本来そのような自然環境の中で育っていたはずなのですから、自然のままの環境で育つ力を持っていて、自ずと環境も最適になると児玉さんは話してくれます。
除草剤をまいて雑草を無くしてしまうと、本来であれば雑草につくはずの虫や病気が、果樹にとりついてしまう。その病気をとるために、農薬の散布を必要とする。

さらに、除草剤をまいているのに果樹だけ青々としているのは、よく考えると自然環境の中でおかしくないですか?
と、児玉さん。観音山フルーツガーデンでは、自家製の有機堆肥を使い、異常気象などで弱った土壌の補強をおこない、薬散布は極力量と回数を抑え、収穫前の2ヶ月間は散布を一切行わないとのこと。
「自信を持って、子供に丸かじりさせられる果物を栽培したいんです。」お客さんと直接対面して売るからこそのこだわりがその言葉にはみなぎっていました。

 

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