コロカ事業

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滋賀県大津市「松喜屋」を訪ねる

 

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滋賀県初のコロカは近江牛

京都駅からJR東海道本線、京阪石山本線を乗り継いで30分もかからずに唐橋駅に到着。京阪電車はわずか2駅の移動ですが、ひと回り小さな車両が街なかを縫うように進んでいき、面白さいっぱいです。
滋賀県初のコロカは京都からほど近い大津市。しかも、満を持しての牛肉、近江牛の登場です。
駅からすぐ、松喜屋(まつきや)で我々を迎えてくださったのは、4代目の西居基晴(にしいもとはる)社長とスタッフの皆さまです。
この後、近江牛を食すことを思い浮かべ、ソワソワと落ち着かない気持ちを抑えつつ、その歴史と魅力についてお聞きしました。

 

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禁じられた肉食

まずは牛肉についておさらいです。歴史を追うと、近江と牛肉の古い関係も少し見えてきます。
肉食は、仏教伝来より長く禁じられてきました。戦国時代に一度復活したものの、鎖国やキリスト教の禁止とともに再び禁じられます。
そんななか、幕府に太鼓の皮を献上する目的で、当時の彦根藩(現在の滋賀県の北部)井伊家は唯一公式に牛の屠殺(とさつ)が許されていました。

牛皮をとったあとの肉は養生薬として、味噌漬けや干し肉、生肉として売り出され、将軍家にも献上品として届いていたそうです。肉食を禁じていたとはいえ、その魅力には勝てず、幕府も見て見ぬふりをしていたのかもしれませんね。

 

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食べ物の恨みは恐ろしい

みなさんも使ったり聞いたりすることがあるかと思います、「食べ物の恨みは恐ろしい」という言葉。実は、語源は近江牛にあるのだそうです。
肉食が禁じられていたころ、徳川御三家の水戸藩主は毎年養生肉が届くのを楽しみにしていました。しかし、禅宗に帰依し仏法の教えを守っていた井伊直弼が彦根藩主となると、牛の屠殺をやめ、養生肉もピタッと止まってしまったそうです。

日米修好条約が原因で水戸浪士に暗殺されたとされている井伊直弼ですが(桜田門外の変)、このときの「食い物の恨み」もあったでのは、と言われており、先の言葉の語源になっているそうです。

 

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文明開化の象徴として

明治になり、肉食は文明開化とともに全国的へ普及しました。
しかし、近江から東京まで牛を運ぶのには東海道を歩いて約15日。かつては多くの牛を飼育する牛馬商だった松喜屋の初代・西居庄蔵氏にとっては移動にかかる時間と一度に輸送できる数の少なさが大きな悩みでした。
そこで、西居氏は海上輸送に答えを見出し、販路の拡大に成功します。
そして、「銀座の松喜屋」と「米久」によってすき焼きが一大ブームとなると、松喜屋への近江牛の納入を一手に引き受けるようになりました。
その縁があって「松喜屋」の暖簾を譲り受け、現在の「松喜屋」へと至ります。

 

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